2007年度第2学期 「哲学史講義」「ドイツ観念論の概説」        入江幸男
           第8回講義(2007年11月28日)
 
           §8 シェリングの自由論
超越論的観念論の体系』の中に道徳論と自由論があるが、それはカントとフィヒテの影響を強く受けているものなので、より独自性の明確な後期シェリングの自由論を紹介する。
 
人間的自由の本質 およびそれと関連する諸対象に関する、哲学的諸研究』1809年(『世界の名著 続9 フィヒテ シェリング』中央公論社、渡辺二郎訳、より引用)が、後期シェリングの自由論の代表作とみなされている。
 
<汎神論という非難>
 『私の哲学体系の叙述』(1801)以来、F.シュレーゲル、F.ケッペンによって、シェリングの哲学は、汎神論であり、それゆえに、宿命論であり、ニヒリズムである、と非難されており、シェリングはそうした批判に答えようとして『人間的自由の本質』を書いた、と言われている。
 まず彼は、「真の汎神論」は実在論と観念論の「相互浸透」418ないし「統合」であるという。つまり、決定論であり実在論であるスピノザ哲学のような汎神論は、真の汎神論ではないという。また、他方で、フィヒテのような観念論もしりぞけられ、観念論の自由概念は欠陥をもつとされる。
 
<選択の自由の批判>
 シェリングは、フィヒテのいう選択意志(Willkür)の自由(これは、デカルトのいう不決定の自由と同じものである)をつぎのように理解する。
 
「通常の概念にしたがえば、自由とは、二つの矛盾的に対立するもののうちの一つのあるいは他を、何の規定根拠もなしに、全くただそれが意欲されるから、意欲するのだ、というような具合の、完全に無規定的な能力の内にあるものとされているのである。」456 
 
 シリングは、選択意志の自由を主張する観念論と、決定論を主張する実在論を統合する真の汎神論という立場から、「英知的存在者の内的本性から発する絶対的必然性としての自由」というものを主張する。
 
<絶対的自由=絶対的必然性>
「自由な行為は、人間の英知的なものから直接的に生じてくる。しかし、この自由な行為は、必然的に、一つの規定された行為であり、たとえば、身近な例をあげれば、一つの善いあるいは悪い行為である。絶対的に無限定なものから、規定されたものへの移行というものは、ところが全く存在しない。たとえば、英知的存在者が純粋な全くの無規定性にもとづいて、なんらの根拠もなしに、自己自身を規定するであろうなどということは、先に挙げた、恣意の無差別性の体系に、逆戻りしてしまう。・・・・英知的存在者それ自身が、その本質において、すなわち、それ自身の本性において、当の存在者にとって、規定であるのでなければならないであろう。」459
「行為というものは、英知的存在者の内奥から、ただ、同一性の法則にしたがって、また絶対的な必然性をともなって、のみ、生じてくることができるのであって、このような絶対的必然性のみが、また絶対的自由でもあるのである。」460 
「ただ、人間自身だけが、自分を決定することが出来るのである。しかし、この決定は、時間の内に入ることが出来ない。この決定は、一切の時間の外にあり、従って最初の創造と符号する。461
 
<根本悪>
「実在的で生き生きとした自由の概念は、自由とは善と悪との能力である」420
「我意のかの高まりが悪なのである。」437
「悪とは、諸原理の積極的な転倒もしくは逆転に基づくものなのだという、この唯一の正しい悪概念は、最近においてはとくにバーダーが、ふたたびこれを強調して、意味深い物理的な類比、ことのほか病気の類比によって、これを解明した。」438 
「自分自身の所業によって、しかも誕生のときから、身に招いた悪のみが、したがって、根本悪と呼ばれることができる。」464
 
 これに続いて、この根本悪の理解は、カントの『理性の限界内における宗教』での根本悪の議論を継承するものであることを述べている。
  さらに、シェリングは、これに対して、怠惰を根源悪とみるフィヒテの思想を、世間の博愛主義に影響されたものとして、いわば浅薄な経験的な悪の理解であるとして、批判する。
 
「フィヒテは、思弁においては、このような所業の概念を把捉していたのに、道徳論においては、ふたたび、世に行われていた博愛主義に陥って、こうして一切の経験的行為に先行するかの悪を、ただ人間本性の惰性のうちにのみ、見いだそうとしたのである。」465
 
怠惰に身をまかせることは、カントのいう他律の一種である。カントは、『宗教論』で言っているように、自然的傾向性自体が悪いのではなく、それに従うことを選択することが悪いと考える。おそらくシェリングも同様だろう。しかし、フィヒテのいう「根本悪」とは、自然的傾向性としての怠惰ではなく、それを選択することもでもなく、つまり、怠惰を選択すること自体ではなく、怠惰であることそのものである。ここには、ある種の状態を悪と考えるのか、ある種の選択を悪と考えるのか、という問題がある。
 
 カントは『単なる理性の限界内における宗教』で、誕生の時点あるいは人格の成立の時点で、おそらくは英誓いにおいて、意志決定の主観的な原理(格率)の選択があったと考える。このとき定言命法を選択せず、別の原理を格率に選択することが、根本悪なのである。カントの意思決定論、格率論は、このような意味の決定論に帰着する。(詳細は、拙論『ドイツ観念論の実践哲学研究』を参照。あるいは、昨年度後期の講義「ドイツ観念論の自由論」のノートを参照してください。)
 
<乱暴な総括>
       悪        善
カント   他律       自律
フィヒテ  怠惰       自発性
シェリング 我意       普遍的な意志との同一性(?)
ヘーゲル  全体からの分離  全体への合一
彼らのそれぞれの善の定義は、彼らの自由の定義と同一であるということもできそうです。
善と対立する悪の理解が各人で違っているということは、彼らの自由の理解も違っているということです。